院長 自己紹介
2024年1月11日院長の市川 裕希です。
姉3人の末っ子長男として大阪府大正区で生まれました。引っ込み思案で人見知り、内気な性格。唯一の男の子ということもあり、特に母には甘やかされて育ちました。母は家事、育児、仕事と忙しい中、キャチボールをしてくれたり、自転車でミニ四駆のコースを買いに行ったり。そんなわがままをいつも聞いてくれた母が大好きでした。
私が中学生の頃、母が体調を崩しました。婦人科など病院を転々とし、原因が分かった時にはステージ4の大腸がん。面会に行きましたが手を握るだけで会話もできませんでした。手術後、家の近くの病院に転院した母は痩せて別人のようでした。私と父、姉、親戚、みんながお見舞いに行った時、細い声で「裕希、塾頑張りや」とだけ言われたことを覚えています。「うん」とだけ返事をし、病院の部屋を出た時、ピーと音が聞こえ、そのまま母は息を引き取りました。当時の私は反抗期で父親に見舞いに行くように言われていましたが、亡くなった日の1日しか会いに行きませんでした。このことは人生で一番後悔しています。母の死はあまりに突然で何もできなかった悔しさを感じた私は、「人の役に立ちたい」と思い、人に喜ばれる仕事、頼られる仕事に就きたいと思いました。
しかし当時の私は、夜中まで友達とカラオケに行ったり、公園でたむろしたり・・・家に帰ると鍵を閉められ家に入れないようにされていました。(笑)そして、漠然とした「人の役に立ちたい」という思いだけを残し印刷業界に就職。8年間仕事をし、安定した生活を送っていました。そんなある日、転勤先で事故に遭い救急車で運ばれ、命に別状はなかったものの原因不明の痛み、しびれに襲われました。何回も病院で治療してもらいましたが症状は変わらず。そんな絶望的な状態のとき、藁にも縋る様な思いで初めて鍼灸整骨院に行きました。
ドキドキで緊張していた私に整骨院の先生は問診から施術まですごく丁寧に診ていただきました。そして整骨院に通うようになってひと月ほどでみるみる首の痛み、脚のしびれが改善していきました。この時「病院でも良くならないのに凄い!!」と感動したことを覚えています。
この出来事から私は「よし、この感動を与える側になろう!!」と決意。それからすぐにマッサージ屋さんでバイトをしながら勉強をスタートしました。
印刷業界を辞めて新しいことを始めることを周囲に伝えると、当時の印刷会社社長や同僚、仲間、父親までも「どうせ無理やろ」「学費が高額やで」「合格するか分からんで」と反対されました。それでも「人の役に立ちたい」という思いが強く、周囲の反対を押し切り専門学校に入学。(今では親父と社長も仲間も応援してくれてます。)
在学中の3年間は整形外科で勤務し昼は仕事を、夜は学校という生活を送りました。そのため、他の学生と違い勉強する時間は夜中か早朝の通勤の電車の中。
連日徹夜で試験勉強をし、地獄の日々を経てなんとか国家資格を取得しました。卒業後、鍼灸整骨院で3年、整形外科で7年、日祝は別の整骨院で仕事、たまの休みはセミナー。とにかくがむしゃらに働き、技術と経験を積んできました。
整形外科でドクターの指示のもと、10年間リハビリ業務をさせていただき、圧倒的な症例の数と色々な患者さんの体を診てきました。レントゲンを見てリハビリメニューを考え、疑問があれば医師に質問し医学的根拠をもとに施術、外傷、慢性疾患、交通事故患者まで幅広く施術をしてきました。その結果、現在の解剖学に基づく施術が完成し、門真市幸福町で整骨院を開業しました。
開業当時、お花やお祝いを頂いたり、遠いところから娘さんに頼んで整骨院に来てくれたり、友達を紹介してくれたりする方がたくさんおられました。本当に感謝しています。ありがとうございます。 私自身、整形勤務と土日祝整骨院で仕事、夜中に工場のバイトもしたり、酒屋で配達のバイトをしたりハードな生活をしていた時があり、ぎっくり腰を繰り返し、さらしを腰にガチガチに巻いて仕事をしていました。 体の痛みを我慢しながら仕事をするツラさを経験したからこそ、皆様にはそんな思いをしてほしくない!一人でも多くの「人の役に立ちたい」との想いから、当院は10年後も痛みのない体で仕事ができる!そんな未来をデザインします。 ・仕事でも腰が痛くなかったよ! ・先生、膝の痛みがなくなって正座ができるようになったよ! ・首の痛み痺れが良くなった! ・肩が上がるようになったよ! とたくさんの方に言って頂けるように、問題解決までできる整骨院として、患者様のゴールを明確にし、患者様と一緒にゴールを目指していきます。
院長 市川 裕希